宗教について思う 40 『愛について 2』 白鳥静香著
愛とは抽象的なものではありません。
愛とは、
今、この瞬間、
目の前のたったひとりの人だけを愛することです。
私たち自身、
誰かから愛されるとき、
そのように愛されなくては愛を感じないのではないでしょうか?
抽象的と、
ここでいうのは、
人類愛とか、
世界を愛するという言葉のことです。
多くの宗教は、
人類を愛しなさい、
あるいは世界を愛しなさいというように大きな愛を教えます。
それはもちろん
とてもよいことであり、
それこそが私たちが到達するべき到達点であることは間違いがないでしょう。
しかし、
それはあくまでも到達点であって、
けして出発点ではないのではないでしょうか?
なぜなら、
私たちは目の前のたったひとりの人を愛そうとするなら、
その人が幸せであるために、
その人の隣人や、
その人の住む世界も幸せなものであってほしいと、
つまり人類や世界への愛へと心が広がってゆくでしょう。
しかし、
逆にはじめから、
人類や世界といった抽象的なものを出発点にしてしまうと、
愛がわからないままになってしまう、
たったひとりの人も心で愛さないまま、
愛だ愛だと言葉で言うだけで終わってしまうことも多いのではないか?
と思うからです。
(1は無限をかけるなら無限ともなりますが、
ゼロは無限をかけてもゼロのままです。)
聖書の世界の宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)
では、
偶像崇拝の禁止という戒律があります。
そこでいう偶像とは、
木や石のような物質に刻まれた神の像のことを指しているのだと思いますが、
物質的なもの(生きていないもの)で、
精神的なもの(生きたもの)を表現することを偶像崇拝であると、
もう少し広い意味で
偶像崇拝という言葉をとらえなおすなら、
愛を
人類愛や世界への愛という抽象的なものと考えてしまうこともまた、
ひとつの偶像崇拝であるといえるのではないでしょうか?
人類や世界とは、
集合の名辞、
つまり、
単なる概念であり、
具体性のない、
血の通わない単なる言葉にすぎないものであるからです。
日本には、
絵に描いた餅は食べられないということわざがありますが、
まさに
人類愛や世界への愛とは絵に描いた餅、
人類愛や世界への愛という言葉からでは、
愛するということの、
味も手触りも得られないのではないかと思うのです。
なお、
東洋では神の像や仏様の像を拝むことは禁止されてはいませんが、
概念のような生きていないもので精神的な生きたものをあらわすということもふくめた、
広い意味で偶像崇拝ということを考えるなら、
東洋にも偶像崇拝の禁止に近い考えがないとはいえません。
それは、
正法と像法という考え方です。
正法とは簡単にいうなら、
生きた教えのこと、
像法とは外面的な形だけの教えのことです。
その基準でいうなら、
人類愛や世界への愛といって、
実際に今この瞬間目の前にいるそのたったひとりの人のことを
愛さないなら、
それは正法ではなく、
像法であるといえるのではないでしょうか?
話が少しそれましたが、
愛が本当の愛であるためには、
私たちは抽象に流れて目の前にいるその人のことを忘れてはいけない、
今、この瞬間の、
目の前にいるたったひとりの人というより、
人類や世界といった方が、
確かに私たちのロマンや情熱をかき立ててはくれます。
しかし、
それでも、
私たちの心のなかの愛が生きた愛であるためには、
今、この瞬間、
目の前にいる、
そのたったひとりの人を愛することからはじめなくてはならないということは
忘れてはならないことなのではないでしょうか?
偶像を単に木や石に刻んだ神の像のことととららえるなら、
偶像崇拝禁止の戒律は、
必ずしも東洋の宗教にまで共通する戒律ではありません。
しかし、
それを生きた心を取り戻すことであると考えるなら、
それは単に聖書の世界を越えて、
世界に共通することとなるのではないでしょうか?
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