宗教について思う 41 『愛について 3』 白鳥静香著

宗教について思う 41 『愛について 3』

宗教における大きな難問のひとつは、

同じ宗教が愛と正義との両方を説くというところではないでしょうか?

なぜなら愛と正義ということは矛盾するからです。

愛とはつまり許すということです。

対して正義とはつまり裁くことであるからです

許すことと裁くこと、

このふたつは正反対のことであるからです。

宗教は一方で、

「神は愛である」と説き、

一方で、

神の正義、神の裁きを説いている。

(カトリック教会の本拠地、

イタリアのシスティナ礼拝堂には、

生前愛を説いたはずのキリストが、

天において人類を裁いている、

ルネサンスの巨匠ミケランジェロの描いた最後の審判の壮大な天井画があります。

旅行好きな人のなかには直接見たことがあるという人も多いでのではないでしょうか?)

これは大きな矛盾なのではないでしょうか?

多くの人が宗教に不信感を抱くのはこのようなところではないかと思います。

私は特定の信仰を持っているわけではないので、

キリスト教の教義については専門家におまかせしますが、

この、

神の愛の側面と裁きの側面ということを、

特定の宗教や宗派の教義と関係なく、

素直に考えるなら、

私は神における愛という側面と正義という側面とは

実は矛盾しないのではないかと思うのです。

というのは、

愛(許し)という言葉と、

正義(裁き)という言葉は、

単に単語だけ抽象的に比較してしまえば確かに正反対であり、

矛盾しますが、

それを私たちの具体的な経験に照らして考えるなら、

まったく矛盾はないように思えるからです。

たとえば、

私たちは、

子供に、

「ハサミで遊んではいけないよ。」

と言います。

これは正義、裁きです。

しかし、

だからといって、

ハサミで遊ぶことを禁止したからといって、

親は子供を愛していないと思うでしょうか?

いえ、

思わないはずです。

子供にハサミで遊ぶことを禁止する親は子供を

愛しています。

愛しているからこそ、

ケガをしないように、

痛い思いをしないように、

「ハサミで遊んではいけない」と、

ハサミで遊ぶことを禁止するのではないでしょうか?

逆に、

子供にハサミで遊ぶことを禁止しない親の方が

愛を疑われてしまうのではないでしょうか?

つまり、

多くの宗教がいうように、

神が愛であるなら、

親が子供にハサミで遊ぶことを禁止するのと同じように、

神における愛の側面と正義という側面とはまったく矛盾しないのではないてしょうか?

それが分からなくなるのは、

愛とか、正義という、

言葉(概念)だけを取り出して、

バラバラに考えてしまうからであると思います。

神の

愛の側面と裁きの側面とは矛盾しない、

しかし、

過去の歴史において、

宗教には、

裁きの恐怖の方を強調し、

人々の神への恐怖心を煽ってきたという面があったのではないでしょうか?

これは充分に職業が分化していない時代において、

宗教が、

霊的というより、

物質社会における司法や社会秩序の維持、

といった現世的な役割を担ってきたという事情があったから

ではないかと思います。

見えない恐怖を煽られれば、

私たちは人の見ていないところでも、

見えないものの目を恐れて指導者に逆らわなくなるからです。

しかし、

これは宗教的真理といえるものではないでしょう。

そのことをたとえるなら、

少し大きくなったお兄さんが、

幼ない弟に、

「お前はハサミで遊んだからもうお父さんやお母さんに愛されない、

お前はお父さんやお母さんに見捨てられたんだよ。」

と意地悪を言って脅かすようなものです。

私たちが神様のことを考えるとき、

無意識のなかに、

そのように教えられた恐れが混ざってはいないでしょうか?

そのように考えが混ざっているなら、

それは愛を見えなくしてしまうものであるでしょう。

愛を信じられないこと、

それはとても不幸なことであると思います。

神が愛であるなら、

神の愛と正義とは矛盾しない。

それらはすべて愛であるでしょう。

もし、

神が存在したとしても、

有限な存在である私たちには神のことは分からないかもしれません。

しかし、

もし、昔から言われるように、

神が愛であるなら、

神を知るためには愛を知ること、

そして、

愛を知るとは

辞書をひいて愛という言葉の意味を知ることではなく、

今この瞬間、

目の前にいるたったひとりを実際に愛すること、

私たちがもし神を知ることができるとするなら、

そこにこそ手がかりがあるのではないでしょうか?

追加

イスラム教では豚を食べることが宗教的な戒律で禁止されています。

これは他の宗教の人には理解しがたい不思議な、

あるいは非合理な戒律のように見えるかもしれません。

他の肉はよいのに、

なぜ豚だけはダメなのか?

しかし、

地理的に考えるなら

それは、案外、

人が生きるのに合理的な戒律であったのかもしれません。

イスラムは砂漠の地域の宗教です。

そのような食料の少ない地域で、

雑食で人間と同じものを食べる豚という家畜を飼ってしまえば、

人間の食料と競合し、

たとえば金持ちが豚肉を好めば、

貧乏な人たちは、

豚のために炭水化物などの食料を奪われ、

逆に人間が餓えることにもなりかねません。

対して、

羊や牛等の家畜の食べ物は、

人間の食べない草であるので人間と食料が競合しない、

なので羊や牛等は飼っても人間の食料を増産することにこそなれ、

餓えさせることにならない。

そのようにも考えることもできます。

宗教における

正義は時代が変わり、地域が変わってしまえば理解できなくなるとしても、

本来、

人を生かすためのもの(愛)であったということも多いのではないかと思います。

(なかには、はじめから無意味なものもあるとは思いますが)

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