宗教について 45 『お念仏の思い出』 白鳥静香著
宗教について 45 『お念仏の思い出』
私は子どものころ、
夏休みや冬休みになると、
ある地方にある親戚のおばあさんの家にとまりに行っていました。
そのおばあさんは、
私の母のことも、
子どものころから可愛がっていて、
母ともどもとても可愛がってもらったものです。
そのおばあさんが住んでいたところは、
新幹線の駅からもそれほど遠くないところ
であったのですが、
東京にくらべると、
まだ昔の風習が数多く残っていて、
それもまた、めずらしく、
とても楽しい思い出となっています。
昔の風習といえば、
これも昔の風習なのかもしれませんが、
そのおばあさんやその近所のおばあさんたちは、
お仏壇に向かって毎日お念仏を唱えていました。
私はその姿をとても美しいと思いました。
子ども心に、
自分もそのように生きてゆきたいと思うくらいでした。
現代の人の多くは、
あまりお念仏など唱えないかもしれません。
現代の人からしたら、
そもそもいるかいないかわからない神仏に毎日手を合わせる意味があるのか?
という感じかもしれません。
古くさい考えかもしれませんが、
でも、
私はたとえ、
仏なる存在が存在しないとしても、
お念仏、
つまり、
仏様のお名前を呼んだり、
仏様のお姿思い浮かべたりすることには、
(もともとはお念仏は名前を呼ぶことより、心に思い浮かべることをいいます。)
意味があることではないかと思うのです。
私自身、
特定の宗教を持っているわけではないのですが、
にもかかわらず、
そのように思うのは、
仏様を思い浮かべることで、
自分の心の一部に、
人を許す心が生まれるだろうと思うからです。
たとえば、
実験として、
みなさんにも、
自分の一番許せないと思う人や、
どうしても好きになれないという人、
苦手な人などを
少しの間、
思い浮かべてみてほしいのですが、
その人を自分で許そうとすると、
すごく難しいはずです。
多分無理だと思います。
どうしても許すには、
場合によっては心を殺して感じないふりをしなくてはならないかも
しれません。
(心を殺すのはつらいことです。
嫌なことに対して心を殺すことは同時に幸せなことに対しても心を殺してしまうからです。)
しかし、
存在するしないは、
いったんおいておいて、
仏様のような慈悲の存在を思い浮かべてみてください。
特に日本でお念仏の対象となっている、
阿弥陀様は、
どのような悪人でも救ってくれるという仏様です。
(お経には、「念仏衆生、摂取不捨」
とあります。仏を思う人をどのような悪人でもけして捨てないという意味です。)
必ずしも阿弥陀様でなくともよいでしょうが、
少し、
そのような慈悲の存在を思い浮かべてみてください。
思い浮かべたその仏様は、
あなたの嫌いな人を許せないと思っているでしょうか?
そうは思っていないだろうと思います。
分かるでしょうか?
仏様を思い浮かべたのは相手を許せないと思っている自分です。
仏様を思い浮かべている、
当の自分自身は、
今この瞬間でも相手を許せないかもません、
にもかかわらず、
自分の思い浮かべた仏様は、
相手を許し、
慈悲のまなざしで相手を見ているのではないでしょうか?
つまり、
相手を許せない自分の心のなかに、
相手を許している領域が生まれてはいないでしょうか?
先程までは、
自分の心は1ミリも相手を許すことができなかった、
しかし、
仏様を思い浮かべると、
その思い浮かべた仏様も自分の心の作ったものであり、
自分の心の一部であるにもかかわらず、
その仏様は相手を許している。
明確に自分のなかに相手を許している心が生まれているのではないでしょうか?
1ミリも相手を許せないというのと、
たとえ少しでも相手を許している心があるというのとでは、
非常に大きな違いなのではないかと思います。
ではなぜ、
人を許すことが意味があるのでしょうか?
悪い人や嫌いな人を許さなくてもよいのではないでしょうか?
私はそうは思わないのです。
なぜなら、
人を許すとき、
私たちは自由となり、
幸福となるからです。
心のなかに許せない人がいるとき、
私たちの心はその人に縛られています、
過去にも縛りつけられているかもしれません。
それは自由なことではありません。
また、
嫌だと思う人がいるようなとき、
あるいは敵対する人がいるようなとき(個人でも不特定多数でも)、
私は世界を肯定できなくなります。
許すということは、
自由となり、
世界を肯定することではないでしょうか?
世界、
自分の住む世界とは、
つまり自分の人生です。
だとするなら、
自分の住む世界を肯定することは
自分の人生を肯定することです。
幸福とは、
自分の人生を肯定することができるということではないでしょうか?
アメリカを代表する哲学者に、
ウィリアム・ジェームズ(1842~1910)という人がいます。
ジェームズは、
有用であるものを真理であると考える、
プラグマティズム(実用主義)という哲学をうち立てましたが、
ジェームズは宗教についても、
このプラグマティズムをつらぬき、
「それが心の安らぎをもたらすならばその人にとってよい宗教である。」
と考えました。
私も、
このジェームズにならうわけではありませんが、
実際に仏様が存在するしないは、
いったんおいておいても、
仏様のような慈悲のみの存在を思うことは、
(仏様でなく、マリア様でも何でもよいでしょうが)
私たち自身が自分の住む世界を、
つまり、
自分の人生を、
いえ、
自分自身の存在を肯定するために
非常に有用なことではないかと思うのです。
追加
仏教には私たちの心のなかには、
悪い心だけではなく、
仏様と同じ性質、仏性もまたあると教えています。
本来は、
仏性とは、
仏様と同じように慈悲を感じ、同じように慈悲で行動する心のことかもしれませんが、
(それは極めて難しいことだと思います。)
仏様を思うとき、
私たちの心のなかの仏様のイメージもまた、
仏性と考えてもよいのではないでしょうか?
自分で仏様と同じように感じ、
自分で仏様と同じように行動することだけを
仏性と考えるなら、
私たちは一生それを見つけることはできないでしょうが、
心のなかの仏様のイメージを仏性と考えるなら、
それは仏性としては、
まだ胎児のような未熟なものであるかもしれませんが、
私たちは自分のなかに仏性、
仏様の性質、
慈悲の心を見失わないでいられるのではないでしょうか?
追加 2
古い宗派の仏教の人、
たとえば、
タイやスリランカの仏教ような上座部仏教のような、
人から見れば、
古い経典にない、
阿弥陀様や、
それを思う念仏のような形の信仰を嫌うかもしれないが、
念仏の起源は、
もともとは古い宗派の仏教にも定められている瞑想(四十業処)のなかのひとつ、
仏随念(仏様のお姿を思い浮かべること)
からきているのではないでしょうか?
私は必ずしも仏教の専門家ではないので、
これが仏教としてオーソドックスな見解であるかどうかは分かりませんが、
必ずしもお念仏のような信仰を仏教的ではないとは
言いきれないような気がするのです。
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