PLATONIC  太陽の少年 ―― 愛について ②

第二歌


 聞け、人よ、人々よ。

 愛のはじまりを。愛のはじまりのその伝説を。

 すべてのものは、この世なるすべてのものは、愛を求める。

 愛を求めてやまない。

 それは実は、私たちの、その魂が欠けているからなのだ。

 この世なる一切のものは、

つくられたその時から、魂が欠け、存在が欠けている。

 ちょうどあの月のように……。

 それゆえに、地上のものは、欠けた魂を満たし、完全なる存在になろうと、

月が天をめぐるように地をめぐって、かたわれを求める。

 それこそが、愛のはじまりであるのだ。

 不完全な存在であるとは、悲しいことだ。

 広い世界をめぐり、

かたわれを求めては泣き、また、死を想いては泣く。

 その不完全な、また不完全ゆえに死すべき存在も、

愛によってかたわれを見出し、子を産むことができる。

 そして少しだけ、死を免れる……。

 ああ、愛とは、地上における唯一の救いのようなものなのだろう。

 しかし、しかし、その救いも完全ではありえない。

 成就するかに見えたとき、絶望はくる。

 地上では魂は、けして完全にかたわれとひとつにはなれないからだ。

 そう、魂がひとつになるのを、体が、体こそが邪魔してしまう。

 なのに、なぜに、

完全な存在である神が、

このような不完全であわれな存在をつくったのだろうか?

 私はそれを語ろう、その秘密をあなた方に語ろう。

 それは今はもう失われた太古の記憶……。

 神代(かみよ)すらもはるかにさかのぼる秘密。

 まず、時間の前に神のみが存在した。

 そして神ははじまりもなく光り輝いていた。

 まるで太陽のように……。

 神は、完全なる存在。生まれることもなく、滅することもない。

 神は、その光があまりに強く、

あふれ、

あふれ、

それゆえに、あふれた光が、諸々の魂を産むことを意志した。

 あなた方は、原初の神がいかにして諸々の魂をつくったか、

一なる神がいかにして多をつくったか分かるだろうか?

 あなた方に、想像がつくだろうか?

 それは壮大な光景であった。

 神はその時、鏡に、沢山の鏡に、自分自身の光を映したのだ。

 一切のものは、そうやって創造された。

 そのようにして、一は多に分かれてきたのだ。

 ああ、それゆえに、あの天なる星々は、神のそのひとみに似ている。

 そして地上の花たちは、やはりその星空にそっくりなのだ。

 あなた方地上の人々には、分からないかもしれない。

 しかし、もしあなた方が空をぬけて、

星空を外から眺めれば、

星空が花の咲くところにあまりに似ていることに、

驚きの声をあげるに違いない。

 花だけではない。

 地上の一切のものは、どこかしら星空に似、

神そのものに似ている。

 それは、一切が鏡に映った神の像であるからなのだ。

 神は、諸々の鏡に映った自らの似姿を善しとし、

慈しみ、成長を願った。

 あなた方は喜べ。

 あなた方もまた、実は輝ける神の似姿である。

 光を宿した、高貴なる存在であるのだ。

 しかし、しかし、たとえ神を、神の光を宿そうと、

鏡はものの片側をしか映さない。

 鏡に映ったものは、たしかに本物とそっくりである。

 しかし、やはりそれは片側から見た姿でしかないのだ。

 それゆえに、愛というものが生まれた……。

 愛とは、鏡に映った片側が、

自分のもう片側を求め、ひとつになり、

完全なる自分自身を、原初なる一をとり戻そうとする試みなのだ。

 ゆえに一切のものは、

天をめぐり、地を歩み、自らのかたわれを求める。

 ある者はめぐり逢い胸をときめかせ、

ある者はめぐり逢って寂しい心をいやす。

 ひとつになろうとして抱き合い、それは成就するかに見える。

 長い時をかけ、傷つきながら相手を捜してきたのだから……。

 ああ、それなのに、それなのに、その願いは砕かれる。

 私は先ほど、すべては鏡に映った光だといった。

 その鏡そのもの、鏡面そのものが、

光と光がひとつになろうとするのを妨げてしまうのだ。

 それは悲しいことだ。

 鏡に閉じ込められた光……。

 私には、それはまるでかごに閉じ込められた小鳥のように見える。

 小鳥が空を愛し、

空にあこがれ、

空とひとつになろうと、

かごの中をあばれて飛びまわっているように見える。

 しかし、小鳥はかごが邪魔をして外に出られるはずもなく、

ついに翼を痛め、飛ぶことをやめる。

 悲しいあきらめの目をして……。

 私には、この世に生きるものの目は、そういう悲しい目に見える。



第三歌

 

ああ、地上の一切は、

地上の一切の出来事は、

成就しようとして成就できぬ、悲しい愛の物語であるのかもしれない。

 恋人たちだけでなく、

風も海も、

星々の運行でさえ、また、

成就しない愛に生きているのだろう。

 ああ、それでは、私たちには絶望しか残されていないというのだろうか?

 いや、そうではない。

 そうではないはずなのだ。

 見るがいい。

 この花が、絶望しているように見えるだろうか?

 いや、そうは見えない。

 むしろ、素直に生きることを喜んでいるように見える。

 私は今まで、悲しみを語りすぎたかもしれない。

 これから私は、光を語ろう。

 光をこそ歌おう。

 私たちは、そして一切の存在は、

先ほども言ったように、鏡に映った光である。

 しかし、鏡の内にいるなら、同時に、

鏡の外にもまた、存在しているはずなのだ。

 もし、鏡の外に何もなければ、鏡の内にも何も映るはずがないのだから。

 私たちは、鏡の内の自分の姿をながめ過ぎ、

そして忘れてしまったかもしれない。

 しかし、鏡の内にいるということは、

また鏡の外にいるということでもあるのだ。

 ああ、もしそうであるなら、私たちは、

かごの小鳥のように鏡の内にとらわれているわけではないのだ。

 鏡から目を離せば、私たちは不完全に映る鏡の中の光などではなく、

太陽のごとき光そのもの、

鏡のように、月のように光を求める存在ではなく、

光を与える存在であったことを思い出すのだろう。

 鏡の内側では、愛は成就しなかった。

 光と光は、鏡そのものに邪魔をされて、完全にひとつにはなれないから……。

 この世では、魂はいくらひとつになろうと願っても、

ただあこがれ、求め、恋いこがれるだけに終わる。

 しかし、忘れてはならない。

 私たちは、すべてがひとつになる、

一が多であり、多が一であるような世界にもまた生きているのだ。

 そこでは、一切が、一切の愛がすでに成就している。

 太陽のなかでは、すべての光はひとつであるのだ。

 だから、だから、私たちは、

鏡の中だけを見て絶望はするまい。

 絶望してはなるまい。

 私たちはいつか、天上で見るはずだから。

 すべての恋人たちがひとつになり、

鳥と空が、

川と海が、

太陽と月が、

光と影が、

そして敵と敵さえもひとつになるのを……。

 そこでは、狼と羊とがともに遊ぶ。

 だから、心安らかにいよう。

 心平らかにいよう。

 弱き野の花が、けして絶望しないように……。

 愛は成就する。

 私は言っておく、愛は必ず成就する。

 それは天上においてはすでに成就しているのであるから!



0コメント

  • 1000 / 1000