宗教について思う 31 『神を知ること』 白鳥静香著

多くの宗教がいうように、

神が愛であるなら、

神を知るためには、

愛を知らなくてはならないということになります。

愛を知るためには、

論理的な探求や科学的な探求ではなく、

まず自分自身が実際に誰か愛するということから

はじめなくてはならないでしょう。

では、愛するとはどのようなことでしょうか?

思いつくことを少しだけあげると、

愛するとは、

誰かに愛されるという受動的なことではありません。

自分自身が誰かを愛することです。

また、

愛は社会的な義務でしなくてはならない親切とも違います。

愛は自発的なことです。

だからこそ愛するということのなかには苦しみがありません。

それは自分自身のやりたいことだからです。

むしろ愛においてはその親切をしない方が苦しいはずです。

そして、

愛とは、

世界を愛するとか、

人類を愛するというような、

抽象的なことでもありません。

(究極私たちの愛がそこに行きつかなくてはならないとしてもです。)

愛とはもっと具体的に、

自分が目の前のその人を愛するということです。

また愛にはルーティンワークやルールブックの規則のような

決められた形がありません。

愛は一回一回違う形を取るものです。

それが本当に愛であるなら移り変わる状況のなかで

二度と同じ愛の形とはならないはずです。

さらに、

愛とは単なる好きということとは違うことです。

好きは相手が自分の思うとおりにならないとき、

自分の嫌うことをするときは成り立ちませんが、

愛は相手が自分の思うとおりにならないとき、

自分の好まないことをするとき、

また、自分の不利益になるときも愛することです。

愛とはまるで雨風の中でも消えない灯(ともしび)です。

相手が自分の思うとおりにならないとき、

自分の好まないことをするとき、

自分の不利益になるときも愛するということは、

私たちに無限ということを思い起こさせないでしょうか?

無限とは外がない、

つまり包んで捨てることがないということだからです。

そして何より、

愛とは相手が存在することを望むということです。

他にも愛とはこのようなものだという特徴をあげればきりがないでしょう。

しかし、いずれにせよ、

愛を通さずに無限なるものと出会うことはない

そのように思うは私だけでしょうか?

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