宗教について思う 33 『隠れたる神』 白鳥静香著

神様について、

科学で認識することができないから神様など存在しないと言われることがあります。

私にはこれは、

少し不公平な考え方であるように思えるのです。

(不可知論、つまり、

神があるかないか分からないという態度は理性的であり、

公平であると思いますが。)

なぜなら、

そもそも、

無限なるもの、

あるいは、

絶対的なものは認識の対象とならないからです。

少し難しい言い方になりますが、

認識とは、

私という認識の主体に対して

何らかの有限な対象があり、

認識の主体である私がその対象に対して何らかの働きかけをして、

たとえば、

レントゲンなら人体の組織や器官にエックス線を照射する、

電子顕微鏡なら見たいものに電子をぶつける等、

対象にこちらから何らかの働きかけをして、

(その働きかけも常に有限な働きかけです。)

その働きかけに対して

どのような反応があったか?

ということを記述することです。

つまり、

認識とは有限な対象に対してしか成り立たないことなのです。

何かが、

私という認識の主体にたいして認識の対象となっている段階で

それはもはや有限なものであり、

相対的なもの

(私という主体にたいして対象として相対しているので)

であるでしょう。

神と言ったとき、

それが

無限なるものや絶対的なるものを指しているとするなら、

それは認識にあらわれてくるはずはそもそもないのです。

(中世の哲学では神についての表現として、

隠れたる神という言葉がありました。)

だからこそ、

宗教者たちは無限なるものと出会うために

科学的、あるいは学問的認識とは異なる方法論を

とろうとしたのです。

その方法論の一端が「愛」ということであり、

「無我」ということであったでしょう。

それはどちらも、

自己という有限性を停止することです。

自己の有限性を停止することで無限なるものを感じようと

試みたわけです。

その試みが成功であったかどうかは一旦置くとしても、

昔の宗教者たちが

有限なものを認識する仕方では無限なるものは認識できないと

考えていたことは、

単純に、

認識できないから神はないという考え方よりは一歩進んでいたように思えるのです。

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