宗教について思う 37 『あきらめられないこと』 白鳥静香著
宗教が救済のことであるなら、
(救済の具体的な内容は、
宗教ごとに考え方が違うでしょうからここでは一旦おいておきますが)
それは本当は自分のためのものではなく、
愛する人のためのものなのではないでしょうか?
なぜなら、
自分自身のであれば苦しみはあきらめることができます、
たとえ死ぬことでさえ、
それが自分自身のものであるならあきらめ、受け入れることはできるでしょう。
わざわざあるかないか分からない神様に救済を求めるような
非合理なまねをするまでもありません。
あるいは、
つらい思いをしてまで、
修行のような、
成功するかしないかのようなことに対して努力する必要はありません。
単に、
自分自身の理性(コストパフォーマンスを考える計算能力)によって、
あきらめればよいだけです。
しかし、
その苦しみが、
もし、愛する人の苦しみであるとするならどうでしょうか?
それは自分自身のことのようには、
あきらめることも、
受け入れることもできないのではないでしょうか?
愛する人の苦しみであるからこそ、
私たちは、
あきらめることも、
受け入れることもできずに私たちは非合理なものにもすがるのです。
宗教とは、
いかなる宗教であれ、
それが何らかの救済への希望であるとするなら、
それはきっと自分自身のためのものではなく、
愛する人のためのものなのです。
歴史上、
宗教は多くの争いの火だねとなり、
多くの問題を作ってきました。
しかし、
それでも、
宗教はきっと、
人を愛することからはじまったにちがいないと、
私はそのように思うのです。
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