宗教について思う 38 『祈りのとき』 白鳥静香著
宗教と単なる道徳の差はどこにあるでしょうか?
私はひとつには、
祈りがあるかどうか?
ではないかと思います。
では、
それほど信仰深いわけではない、
現代の
私たちが祈るのはどのようなときでしょうか?
まず一番はじめに思いつくのは、
大切な人が病気のとき、
日ごろ特定の信仰を持っていない人でも、
友人や家族、
自分の大切な人が病気のときは真剣に祈る、
いえ、
祈らずにはいられなくなるのではないでしょうか?
自分が病気のときは苦しくとも我慢ができます。
たとえ医師に余命をいわれたとしても、
あきらめて自分の心に折り合いをつけることもできます。
しかし、
大切な人が苦しんでいるときは、
私たちの多くは我慢ができず、
日ごろ特定の信仰を持っていなくても、
何かに祈らずにはいられなくなるのでは
ないでしょうか?
私自身そうだと思います。
逆にいうなら、
私たちが本当に真剣に祈るのは、
大切な人が苦しんでいるときだけといってもよいのではないでしょうか?
東洋の宗教のひとつである、
大乗仏教では、
「覚りを求めるうえで一番大切なことは菩提心である」
といわれますが、
これはまさにそのことを言っているのではないでしょうか?
菩提心とは覚りを求める心のことですが、
それは単に自分のために覚りを求める心のことではありません。
菩提心とは、
単に自分自身ひとりのために覚りを求める心のことではなく、
すべての衆生を救うために覚りを求める慈悲心のことです。
(仏教では、
観音菩薩や文珠菩薩など菩薩という存在を考えますが、
菩薩とは、
単に天使のような人間とは違う霊的存在のことだけではなく、
もちろん天使のような霊的な存在のことをいうこともありますが、
生きた人であろうと、
また能力や修行の進み具合とも関係なく、
この菩提心を持つ人のことをあらわす言葉です。)
大乗仏教において、
覚りを求めるうえで最も大切なものは菩提心であり、
菩提心とは、
衆生を救うために覚りを求める慈悲心のことであるといわれます。
私たちは、
衆生というと、
自分とは無関係な他人のように感じてしまいますが、
大乗仏教においては、
衆生とは自分と関係のない他者ではありません。
大乗仏教においては慈悲観といって、
まず、
すべての衆生、
たとえば目の前にいる、初めて会ったような人、
それも自分を害そうとしているような人を、
無限の輪廻のなかでは、
自分の最愛の母親であったことがあると瞑想して
衆生への慈悲心を起こすことからはじめるのです。
なぜ、
そのような菩提心、
つまり人のための慈悲心が、
覚りを求めるうえで、
宗教の道を歩くうえで最も大切なことであるといわれるのか
といえば、
そのような慈悲心、
大切な人のため、
最愛の人のため、
という気持ちがなければ、
せっかくの宗教心も、
本当に真剣な宗教心とはならないからではないでしょうか?
多くの宗教は人を愛しなさいと教えます。
(私はそれこそ宗教の本質であり、現代における宗教の存在意義であると思いますが、)
しかし宗教とはそれだけではなく、
いえ、それ以前に、
宗教とはおそらく、
はじめから大切な人への愛であり、
大切な人への愛からこそはじまるものなのです。
今回は、
ひとつの例として、
大乗仏教の例をあげてみましたが、
(私自身特定の宗教を持っているわけではないので、
けして大乗仏教を信仰することをすすめているわではありません。
あくまでも宗教ということの本質を考えてみるひとつの例としてあげています。)
このことは、
大乗仏教のみならず、
宗教ということの、
いえ、
私たち自身の心の非常に本質的な部分をあらわしているように思えるのです。
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