宗教について思う 43 『宗教における救いについて』 白鳥静香著

宗教について 43 『宗教における救いについて』


宗教が本当に私たちの心の救いとなるのは、

宗教が無条件の愛、

言葉を変えるなら、

私たちを絶対に捨てない愛であるときではないでしょうか?

人間ははどれほど心の広い人であっても、

有限な存在である以上、

条件つきの愛しか持てません。

つまり、

どう頑張っても、

人間には愛せる相手と愛せない相手とが出てくるのです。

また、

社会も、

それがどれほど理想的な社会であったとしても

それが有限な存在である以上、

どうしても条件つきでしか人を受け入れることはできません。

(たとえば人種差別はなくせるかもしれませんが、

社会はどのような社会であっても、犯罪者を受け入れることはできないはずです。)

私たちはそのような条件から外れないように、

人や社会から見捨てられないように、

いつも努力し、

いつも競争をし(競争とは人を敵視するということです)、

いつもストレスを強いられているのではないでしょうか?

宗教が本当に私たちの心の救いとなるのは、

それが無条件の愛、

絶対に私たちを見捨てない愛であることを示してくれるときではないでしょうか?

神が無限なるものであるなら、

無限とは外側がないということであり、

本来、

神とは私たちを絶対に捨てない愛であるはずです。

(外側がないなら捨てることもできません。)

東洋でいうなら、

たとえば阿弥陀如来とはそのような愛(慈悲)を象徴する仏様です。

(日本の浄土仏教における阿弥陀如来は特にそのような慈悲の色彩が濃いと思います。)

阿弥陀如来とは、

善悪に関わらず私たちを救う仏であり(摂取不捨)、

阿弥陀如来が主宰する国土では住人は容貌の美醜の差別なく(無有好醜)、

等しく美しくなるといわれる、

無差別平等の救済を象徴する仏様です。

神仏の

そのような無条件で無差別の愛が私たちに信じられなくなるのは、

宗教が有限なものとなるときではないでしょうか?

宗教が有限なものとなるのは、

宗教が社会的な秩序や権力の維持という有限な役割を担うときです。

社会秩序や権力を維持するためには、

当然、

その社会秩序にとっての正義と悪とを分け、

正義の人を取り、

悪とされた人を捨てなくてはならなくなるからです。

とはいえ、

宗教が社会的な秩序や権力の維持という役割を担うことは、

過去、

必ずしも有害であっただけというわけではなく、

職業が分化しておらず、

司法や社会の倫理的機能が不充分であった時代、

宗教が社会の秩序やモラルを維持して、

社会を平和を守ることも多かったことも事実であったと思います。

しかし、

職業が充分に分化し、

教育が行き届き、

司法や社会の倫理的機能も発達した現代、

宗教はその役割を担わなくてもよくなった、

つまり、

宗教が無限なるもののみを見てもよい時代となったのではないでしょうか?

宗教が無限なるもののみを見てもよい時代となったということは、

宗教がやっと本当に私たちの心の救いとなることのできる時代となった

ということなのかもしれません。

そのことは、

私たちひとりひとりの心に対してだけではなく、

宗教そのものにとってもまた救いとなるのことなのではないでしょうか?

追加

無条件の愛を説いたキリスト教が

世界宗教として広がったことは、

当時キリスト教が発生したローマ帝国領内では、

ちょうど、

戦争の勝利によって獲得した海外植民地から安い穀物が大量に輸入され、

ローマ市内やローマ近郊の自営農民が自立できなくなり、

大量の無産市民(バンとサーカスといわれるように生活保護を受けて暮らす人たち)

が生まれていたことが関係あるでしょう。

キリストの説いた無条件の愛という教えは、

無産市民たちの、

自分たちは役に立つことのできない存在である、

いなくてよい存在である、

意味のない存在てあるという絶望に対する

唯一の救済であったのではないでしょうか?

時代は違っても、

人間にとって、

社会から

「お前はいらない」

「お前はいなくてもよい存在だ」と

決めつけられてしまうことほどつらいことはないからです。

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