【作品紹介】宗教について思う

1. 宗教の使われ方 より


世界では、

宗教が問題を起こすことが多々ありますが、

私も、先日、

宗教的なものを学んでいる、ある人と話をしていて、

ショックを受けたことがありました。

私はいかなる宗教にも属してはいませんが、

宗教にたいしてはよい感じを持っていたのです。

それには私の生い立ちも関係していると思うので、

私の生い立ちを少しだけお話しすると、

私の祖父は仏教者で、

禅宗の印可(あなたは悟りましたよという師匠からのお墨付き。)

をもらった人でした。

また、母もキリスト教(カトリック)で、

子どものしつけに厳しいところはありましたが、

他人や動物にたいして非常に愛情の深い人でした。

そのようなこともあって、

私も自然に

宗教は善いものであると思っていたのです。

でも、その人と話をしていて、

宗教の教えというものも、

受け取り方によっては、

まったく異なる結論になるものなのだなと、

今さらながら、

宗教について、

いえ、宗教についてというよりは、

宗教についての、人の理解が少し恐いなと思ったのです。

どうしてそのように思ったかというと、

その人と話していて、

その人が、

「この世は(あの世とくらべれば)夢のような世界だから、

人が苦しんでいても助けることに興味がない。

(たとえ病気や事故等で死ぬようなことがあっても、

あの世に帰れば、

魂そのものは傷ついていないということだと思います。)

自分はそんなことより瞑想していたい。」

ということや、

「人は死ぬと、自分の心の世界に帰る。

自分は瞑想しているから、

瞑想しているときの心地よい世界(天国)に帰る。」

ということを言ったからです。

たしかに、

仏教をはじめとして、多くの宗教では、

人は死ぬと、

その人自身の心の状態に等しい世界にゆくと教えています。

なので、そこまではそれほど意外でもないのですが、

私がびっくりしたのは、

その人が、

「だから、自分は天国のような世界に帰る。」と言った

ところでした。

私には、たとえ、

人が自分の心の状態の世界に帰るということが

真実であるとしても、

その人が、

その人自身の言うような、

天国のような素晴らしい世界に帰るとは到底思えないのです。

もし、その人が本気で、

「苦しんでいる人を助けるより、自分が瞑想をする方が

重要である。」

と言っているのだとすれば、

そして、人が死んだあと、

人がその人自身の心の状態の世界に帰るということが

真実であるとすれば、

その人が死んだあと帰るのは、

天国のような世界ではなく、

単に、人の苦しみに無関心な、

瞑想好きの人たちが集まるところであろうと思います。

その人の心が、

もし本当にその人の言葉どおりなら、

その人の心は、

「人の苦しみにたいして関心がない。

自分ひとりだけが瞑想して清らかであればいい。

心地よければいい。」

ということが本質であるように思うからです。

死んだあと、

人が自分自身の心の状態の世界に帰るということが

真実であるなら、

その人は、

そのような、他人の苦しみに無関心な人たちの集まるところに

帰るだけなのではないでしょうか?

そのような、

他人の苦しみに無関心な人たちの集まっているところが、

本当に天国なのでしょうか?

私はそうは思いません。

私には、そのような世界は

ひとつの地獄であるように見えるのです。

暗く、熱のない冷たい世界であるように見えるのです。

天国というところがあるなら、

私は天国とは、

特定の場所のことではなく、

人にたいして優しい人たちが、

人やほかの生き物たちの苦しみを放っておけないという

人たちが集まっているところ

なのではないかと思います。

禅者であった、私の祖父も、

生前、人に禅を指導するとき、

瞑想の心地よさにとらわれて、

他人や、他人の苦しみに無関心になってくること、

同情心や慈悲心の冷めてくることを、

「そこは瞑想者に特有の魔境である、

瞑想者に特有の魔界である。」

と、よく言っていました。

私はその人にひとつ問いたいのですが、

その人は、

自分が苦しいときも、

人間の苦しみは夢だから、

自分の苦しみも助けてもらわなくてよいと本気で

思えるのでしょうか?

その人は、

今は苦しい人生ではないのかもしれません。

でも、いつか必ず人生で試されるときが来るでしょう。

私は、そのときに、

あらためて、その人の答えを聞いてみたいと思います。

祖父や母が教えてくれた宗教とは、

慈悲心そのものであり、

無条件の愛を教えるものでした。

私は宗教とは、

そのようなものであるべきであると思っています。

厳しい生存競争の繰り広げられるこの世で、

無条件の愛を教えることができるのは、

やはり、宗教的なものしかないのではないか?

と思うからです。

でも、もし、

宗教を人の苦しみにたいする自分の無関心を

正当化するために使うなら、

宗教とは、ただ危険なだけの代物(しろもの)であるように

見えてしまうのですが、

どうでしょうか?


                   2017年11月21日  白鳥静香


追伸

中国の唐の時代*の有名な詩人の李白(701~762)が、

*(楊貴妃の時代。)

その詩のなかで、

「この世は夢のような世界であるのに、なぜそんなに

苦しい生き方をするのか?」

(「処世若大夢 胡為労其生」、

『春日醉起言志』という詩の冒頭の一節。)

と歌っているように、

この世を夢にたとえる教え、

「この世はあの世にくらべれば真実ではなく、

夢のような世界だから、

そこでの苦しみもあの世に帰れば、

ただ悪い夢を見ていたようなものなんだよ。

たとえ殺されようと、

魂は傷つくことも、死ぬこともないんだよ。」

という教えは、

宗教や芸術においてポピュラーなものであると思います。

でも、その教えは、

人の苦しみを減らしてあげるときのために、

たとえば、自分の愛する人を、

不慮の事故や、

犯罪被害のような形で亡くした人を慰めるようなとき、

「あなたの愛する人は、

天においては、傷ひとつついていないんだよ。」と

そのひとの苦しみを取り去ってあげるようなとき、

使うための教えなのではないでしょうか?

あるいは、その教えは、

自分が人に殺されたり、

人からケガをさせられたようなとき、

その人を許すために、

自分を殺すような人を許すために

使うべき教えなのではないでしょうか?

(キリストは十字架上で、自分を殺そうとする人々にたいして、

「この人たちを許したまえ。」

と祈ったと伝えられています。)

私はその教えは、

いえ、宗教のいかなる教えも、

他人の苦しみにたいして無関心でいるための教えではないと

思います。

たとえ、現実には、

宗教の教えが曲がって使われていることばかりであると

しても、

本来、宗教の教えとは、

他者を愛することを教えるためのものであるはずだと

思います。

お釈迦様は、

教えを薬に喩(たと)え、

「応病与薬(おうびょうよやく)」、

つまり、「相手の問題に応じて教えを使うべきである。」

と言いましたが、

薬がそうであるように、

どのようなよい教えも、

間違った使い方をしてしまえば有害でしかないのだと

心から思います。

最後に古い言葉をひとつ紹介します。

「(私たちは)愛しあうためにこそ生まれてくるのです。」

古代ギリシャの悲劇『アンティゴネー』より。


                     白鳥静香




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